調査・研究Investigation
二神氏の歩み
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729年~748年(天平年間)
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儀光上人が大由利の寺床に十一面観音像を祀る
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1094年(嘉保元年)
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二神島に八幡宮を勧請(「忽那嶋開発記」)
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1278年~1288年(弘安年間)
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由利島、津波などの被害があり無人島化
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1321年~1323年(元享年中)
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豊田種家が長門国から二神島に移住《推定》
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1330年(元徳2年)
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二神吉種(法善)大般若経を八幡宮に奉納(奥書記載)
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1333年(元弘3年)
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豊田種長「星ノ岡・平井城の戦い」に幕府方で参戦
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1337年(建武4年)
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豊田種治(種家の叔父)幕府より越前国の領地を給与
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1346年(正平元年)
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僧道密、法善ら、二神嶋八幡宮の大般若経を修理
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1364年(正平19年)
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河野通尭、九州太宰府に逃れ二神種直同行する
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1367年(正平22年)
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二神種直、宅並城主となる(「二神氏系図伝書略記」)
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1368年(正平23年)
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種直、伊予国で権勢回復の通尭を屋代島に出迎える
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1431年(永享3年)
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二神家経、大般若経を二神島の宇佐八幡宮に奉納
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1434年(永享6年)
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二神家経、箱2個作製,大般若経を二神島宇佐八幡奉納
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1465年(寛正6年)
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二神種、河野教通に味方し、道後で戦死
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1479年(文明11年)
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阿波の細川義春侵攻、二神家直は宅並城を拠点に応戦
家直、戦功で風早郡粟井郷安岡名、友兼名、宮崎分を安堵
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1481年(文明13年)
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粟井郷段銭職に就いた家直,河野氏家臣団の位置を確立
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1486年(文明18年)
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二神式部丞に河野氏が二神家総領職を安堵
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1520年(永正17年)
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河野通直、二神藤二郎(左馬助)、弥五郎に充行状
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1542年(天文11年)
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河野晴通より二神弥五郎(兵庫助)に充行状
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1545年(天文14年)
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二神孫右衛門、河野通直より河原分所有の留保を承認
同、二神左衛門尉に大浦八幡宮の神主職の留保を承認
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1546年(天文15年)
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二神通範、河野通直より所領相続の承認
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1549年(天文18年)
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二神源三郎、河野通直より「和気郡内所領」を安堵
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1551年(天文20年)
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二神兵庫助、河野通直より「二神島作職」を安堵
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1552年(天文21年)
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宅並二神衆に安堵状発給。鴨部郷新田分を新たに安堵 [地図]
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1570年(永禄13年)
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河野氏は二神重成に対し村上通総との交際断絶を指令
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1572年(元亀3年)
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毛利軍、伊予に侵入、二神氏は恵良城攻防戦で奮戦
二神通範,伊予侵入の阿波三好氏を大野氏等と協力撃退
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1573年(天正元年)
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二神越後守は3月、喜多郡の大野直之の城を攻撃
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1579年(天正7年)
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鹿島城代、二神豊前守は来島通総と風早郡の占領に失敗
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1582年(天正10年)
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二神重成,通総威圧で大島,中島に来襲した毛利軍を撃退
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1585年(天正13年)
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二神通範、高穴山城で小早川隆景軍と戦い奮戦後降伏 [[地図]
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1587年(天正15年)
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二神氏、安芸国竹原で没した河野通直の年忌供養継続
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1592年(文禄元年)
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二神通種,種範兄弟,文禄の役に来島通総軍に所属し出陣
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1601年(慶長6年)
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二神之慶、二神著勝、豊後森転封の来島康親に同行
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1603年(慶長8年)
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10月、加藤嘉明 松山城に入る。
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1616年(元和2年)
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7月15日 二神氏宗家7代目二神通範没 ?歳
この頃の二神氏宗家8代目二神通種の消息が未確認
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1627年(寛永4年)
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宗家二神系譜、加藤嘉明の会津転封に伴い二神島帰農
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1628年(寛永5年)
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4月10日 二神氏宗家9代目二神家種没 ?歳
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1644年~1647年(正保年間)
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二神八右衛門種忠、庄屋に任命される
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1657年(明暦3年)
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9月9日 二神氏宗家10代目二神種長没 ?歳
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1662年(寛文2年)
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由利島を肥草山として利用する
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1676年(延宝4年)
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二神島安養寺の本寺は松山領内真言宗の頭寺石手寺
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1682年(天和2年)
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城辺二神系譜二神正種、御荘組初代の在郷代官になる
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1688年(貞享5年)
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6月7日 二神氏宗家11代目二神種忠没 ?歳
二神正種、城辺町庄屋となる
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1725年(享保10年)
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1月4日 二神氏宗家12代目二神種次没 85歳
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1727年(享保12年)
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松山藩主が由利島で鹿狩りをする
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1737年(元文2年)
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史料「二神村庄屋役代々相続一子相伝遺書之事」(文書)
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1741年(元文6年)
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由利島を10ケ年伊予部の肥草山にするとの藩より沙汰
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1745年(延享2年)
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7月29日 二神氏宗家13代目二神種永没 80歳
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1751年(寛延4年)
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「二神喝八幡宮伝記」書かれる(「二神文書」)
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1765年(明和2年)
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2月29日 二神氏宗家14代目二神種信没 69歳
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1768年(明和5年)
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松山藩による、由利島召し上げ事件発生
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1770年(明和7年)
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1月、二神藤右衛門尉種章仏像・仏具などを寄進
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1775年(安永4年)
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種章、由利神社を再建
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1777年(安永6年)
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豊後森藩家来、得能新三郎・二神国次親子、二神島訪問
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1778年(安永7年)
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二神種章「百合嶋録」「油利嶋(寛文2~安永7)」書写
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1792年(寛政4年)
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二神種章「二神家未家之次第」書写
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1794年(寛政6年)
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8月1日 二神氏宗家15代目二神種章没 61歳
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1807年(文化4年)
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二神藤右衛門種福,風早島一郡追放(二神村由緒親類付)
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1808年(文化5年)
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8月、伊能忠敬一行が忽那諸島測量
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1820年(文政3年)
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12月14日 二神氏宗家16代目二神種福没 62歳
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1822年(文政5年)
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豊後森藩士 二神瀬兵衛種村 二神島を訪問、当主不在
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1829年(文政12年)
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二神村の船数50隻(「二神文書」)
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1857年(安政4年)
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8月、10世蘭秀和尚の時、安養専修復
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1859年(安政6年)
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安養寺の脇仏「観音菩薩、勢至菩薩」修理
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1864年(元治元年)
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8月、第一次長州征伐
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1865年(慶応元年)
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4月、第二次長州征伐
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1866年(慶応2年)
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二神氏宗家17代目二神種伍没 71歳
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1867年(慶応3年)
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二神氏宗家18代目二神種式没 45歳
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1874年(明治7年)
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安養寺に由良分校設置。明治12年に松島学校開設。
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1876年(明治9年)
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二神島の船82隻(「第12大区9小区二神村船明細帳」)
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1878年(明治11年)
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二神港の魚類輸出高,鯛440貫、ハマチ50貫、蜜300貫
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1886年(明治19年)
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二神島の本籍戸数127戸、673人。
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1889年(明治22年)
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二神村ほか3ケ村で「神和村」となる。
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1900年(明治33年)
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由利島をめぐり新刈屋漁民との紛争、二神仲次郎尽力
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1903年(明治36年)
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二神漁協結成 初代組合長二神仲次郎
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1904年(明治37年)
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由利島に明神神社建立。
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1908年(明治41年)
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二神島 戸数163戸、1008人、耕地67町。由利島 5戸26人
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1925年(大正14年)
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東大史料編纂所「本島二神文書」39点を収集
東大史料編纂所「吉木二神文書」8点を収集
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1928年(昭和3年)
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7月23日 二神氏宗家19代目二神種倫没 65歳
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1931年(昭和6年)
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東大史料編纂所「片山二神文書」8点を収集
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1932年(昭和7年)
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菅菊太郎「二神島の研究」伊豫史談会に発表
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1933年(昭和8年)
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梨岡素岳銅像が弟子達の手で、二神島本浦の丘に建立
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1942年(昭和17年)
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二神島島内で自家発電開始
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1954年(昭和29年)
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8月21日 日本常民研の網野善彦氏、二神島を初訪問
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1957年(昭和32年)
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海底ケーブルによる二神島への送電始まる。
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1959年(昭和34年)
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神和村は合併して「中島町」となる。
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1961年(昭和36年)
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二神島と由利島との間に電話が通じる。
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1964年(昭和39年)
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二神漁協組合員数182人、農業組合員数160人(重複有)
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1983年(昭和57年)
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神奈川大学日本常民文化研究所へ二神文書を寄託
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1995年(平成7年)
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8月「二神島シンポジウム」開催
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1996年(平成8年)
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3月 神奈川大学日本常民文化研究所等二神家墓地調査
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1999年(平成11年)
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豊田町一ノ瀬訪問団、二神島来島、安養寺へ「館の椿」を植樹
8月4日 二神氏宗家20代目二神司郎没 91歳
豊田氏宗家略系図
- 初代 - 種家
- 2代 - 吉種
- 3代 - 種直
- 4代 - 家直
- 5代 - 家真
- 6代 - 種
- 7代 - 通範
- 8代 - 通種
- 9代 - 家種
- 10代 - 稙長
- 11代 - 種忠
- 12代 - 種次
- 13代 - 種永
- 14代 - 種信
- 15代 - 種章
- 16代 - 種福
- 17代 - 種伍
- 18代 - 種式
- 19代 - 種倫
- 20代 - 司郎